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原 研二(はら けんじ、1951年3月8日 - 2008年9月28日)は、日本のドイツ文学者で、近代のドイツ・オーストリア文学・文化史専攻。ヘルマン・ヘッセ、ローベルト・ムージル、の研究で知られた。晩年は沼田裕之(東北大学名誉教授)らと共に、ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』校訂版編集に心血を注いだ。 == 生涯 == 1951年、仙台市に生まれる。父は建築業であったが、京都大学経済学部の出身で、室積徂春門下の俳人でもあり、その影響により、幼いときから文学に親しんだ。宮城県仙台第二高等学校の頃からヘルマン・ヘッセの小説を愛読。病気休学のため、高等学校を1年遅れで卒業し、東北大学文学部に入学。ドイツ文学を専攻し、1974年に卒業。同大学大学院に進学した後、ヘッセの長編『ガラス玉演戯』についての論文で高い評価を得た。この頃からオーストリアの作家ローベルト・ムージルとその代表作『特性のない男』に強く興味を持つようになる。博士課程を中退して、1977年、東北大学文学部ドイツ文学研究室助手に採用される。1978年、筑波大学現代語・現代文化学系助手に異動。同時にドイツ学術交流会(DAAD)留学生に採用され、80年までボン大学、ザールラント大学に留学してムージル研究を行う。1981年、筑波大学講師。1986年、東北大学文学部ドイツ文学研究室助教授となった。1995年、教授に昇任、1997年、大学院重点化に伴い、東北大学大学院文学研究科ドイツ文学専攻教授。 ムージル研究のみならず、オーストリアの特異な作家研究でも国際的に知られるようになる。シールズフィールドは、メッテルニヒの反動的な時代にアメリカに亡命、アメリカ人になりすましてヨーロッパに戻り、スイスでアメリカをテーマにした小説をドイツ語で書いた作家である(代表作は『船室の書』)。亡くなる前の約10年間は、沼田裕之東北大学名誉教授らと共に、国際的なプロジェクトであるヤーコプ・ブルクハルトの校訂版全集の『イタリア・ルネサンスの文化』編集に没頭していた。2006年にはスイスの国際学会でブルクハルトに関する研究発表を行い、高く評価された。この間、19世紀からムージルに至るオーストリア小説研究によって、2003年に九州大学から博士(文学)を授与された〔博士論文 『物語と不在―19世紀オーストリア小説とムージル』 - 博士論文書誌データベース〕。2006年末から膀胱ガンを患う。闘病生活の中で、3冊の著作をまとめあげた。そのうちの1冊"Braut des Windes"(風の花嫁)はドイツ語で書かれた小説であった。若いときのドイツ留学中から執筆を開始していたものである。2008年、現職のまま、仙台市の東北大学病院で死去。完成原稿で残された3冊の遺作は、日本、ドイツ、スイスで出版された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原研二 (1951年生のドイツ文学者)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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